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「文學界」9月号に、
茂木健一郎 脳のなかの文学
第六回 見られることの喜びと哀しみ
が掲載されています。
一部抜粋
見る/見られるの関係性から、人間は決して
逃れることはできない。老子が無為自然を説く
時にさえ、他者の視線は織り込まれている。が
んじがらめに他者の視線に絡め取られているか
らこそ、キリストのような救世主でさえそれか
らは自由でないからこそ、人は時にそこから逃
れたいと思うのではないか。
通盛卿の討ち死にを聞いた小宰相は、船の上
に打ち臥して泣く。泣いているうちに、しだい
に物事をはっきりと見るようになる。泣いてい
るうちに、しだいに物事をはっきりと見るよう
になる。もしや夢ではあるまいかというような
さまざまな惑いは、涙とともに流れ去り、自殺
の決意が目覚める。とともに自然が目の前に現
われる、常に在り、しかも彼女の一度も見たこ
ともないような自然が。
(小林秀雄『平家物語』)
文明の発達とともに、人類は無垢なる自然を
失った。今、テレビ、インターネットを初めと
するデジタル情報のメディアの発達によって、
人類は、いわば歴史的必然として、もう一つの
何かを失おうとしているように見える。
十字架の上のその人が「神よ、神よ、どうし
て私をお見捨てになったのですか」と叫ぶとき、
それを他者を意識したパフォーマンスと見るか、
それとも絶対者に向けられた訴えと見るか。現
代人は、そのような問いに対して油断し続ける
のだろうか。
例え、人間を人間たらしめている全てのもの
の起源が見ることと見られることの関係にある
としても、それで終わりにしてはいけない。未
だ人間は人間が何なのかを理解していない。人
間(じんかん)の相対主義を離れて無垢なる眼
で世界を見る時、その見る人自身が世界そのも
のになるかもしれない。
平家物語の小宰相も、怪我をした子供も、人
間が泣くのは、他者の視線を意識した時である。
人間は泣きながら生まれ、泣きながら死んでい
く。その涙が乾き、命が尽きる時、他者の視線
の向こうから、広大な天然が浮かび上がってく
る。そして、その時になってようやく、私たち
は頼りなく危なげに感じていた他者の視線もま
た、母なる宇宙そのものであったことに気付く
のだろう。
http://www.bunshun.co.jp/mag/bungakukai/index.htm
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