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何だか、

 投稿者:北島クンの方がいい!  投稿日:2004年 8月16日(月)07時50分37秒
   ものすごく憂鬱で、
「魂の危機」のような状態になっている。

 土、日と、自分の部屋を延々と掃除して
さがしものをしていて、それが見つからない、
ということもあるのだけれども、
 その合間に伊坂幸太郎の『アヒルと鴨の
コインロッカー』と『重力ピエロ』を
読んだことが憂鬱に拍車をかけることに
なった。

 もともと、先日、横浜の展覧会で
芸大の杉原信幸がパフォーマンスを
やった時に、杉原のすばらしいパフォーマンスが
とても「古典的」なものに思えて、
 杉原の前にやった若者のおもしろくも
なんともないパフォーマンスが「現代的」
なものに見えた、という点に
問題の端緒があった。

 あの時、私が「クズ」と感じている
作品ほど、実は「現代」的なのではないか
という直感がはたらいたのだけれども、
その直感の意味するところをここのところ
考えていて、そこに伊坂幸太郎の小説が
入り込んできて、病がいよいよ深くなってきた。

 あの時、杉原の前につまらないパフォーマンス
をやった若者を紹介する時、司会者は、
「生きていることが奇跡のような」と言った。
 そのような大げさなほめ言葉が、
伊坂幸太郎の小説についてもネット上に
あふれている。

 直木賞候補の中で唯一面白い小説だとか、
審査員には伊坂の小説が読みこなせなかった
んだろうとか。

 ところが、私から言わせれば、少なくとも
私が読んだ二つの小説は、どうしょうもない
鼻毛(=看過できない欠点)に満ちた、
「スカ」なのである。

 その「スカ」性が由来するものが、やはり
「現代」という時代の特性らしい、と思い至った
時に、「あ〜イヤだ」というキモチがこみ上げて
くるのを避けられない。

 おそらく、ネット上で伊坂作品をほめている
人たちには、「作品のここがダメなんだよ」
と懇切丁寧に説明しても、通じないだろうという
直感も、私を憂鬱にさせる。

 やはり、柄谷行人が言っているように、近代
小説は終わっているのかもしれない。

 伊坂作品は「情報」の領域で
自閉的に遊んでいる点において、森博嗣や
舞城王太郎と同じような、欠点を共有
している。
 まあしかし、その情報の領域で遊ぶことが
エンタティンメントであり、小説の
醍醐味だと思っているのが現代なんでしょ。

 もういいよ。

 アテネで、そこから逃げられない自らの肉体
という城にこもって闘っているアスリート
たちの方が、根源的な何かを考え
させてくれる。

 生命の尊重を謳うそぶりをみせながら、
その実生も死も単なる記号としてしか扱っていない
現代の情報自閉主義作家群より、アスリート
たちの方がよほど人間らしい。

 ひょっとしたら、現代の
もっとも素晴らしいものがスポーツで、
小説はもう終わっているジャンルなのかもしれない。

 きっと、そうなんじゃないですか。

 (伊坂さんの小説は、さる信頼すべき人に
リコメンドされたのですが、好みがずれる、
ということは時々あることですから、
もしこの日記を読んでも気にしないでください。)
 

朝の雨には、

 投稿者:In the Morning Rain  投稿日:2004年 8月15日(日)08時45分24秒
   独特のクオリアがある。
 空気の匂いまで違っているようだ。

 雨が降らない暑い日々が
続いた後の目覚めの雨は、とりわけウレシイ。

 むかし、九州の霧島の河原でキャンプを
した時に、
 背中の石がごろごろして痛かったのが
妙にうれしかったこととか、
 秩父の雲取山で飯ごう炊さんをしている
時に、
 ものすごい雷雨が来て、光ると
ほぼ同時に雷鳴がとどろき、
 百万の太鼓を一斉に打ち鳴らしたような
音が腹にずんと響いたことなどを
思い出す。

 自然の中にいる時に感じることの
できる様々なことと、
 人工的空間の中でつくり出せる様々な
ことをならべてみれば、
 両者の間に視覚と聴覚くらいの
明確なモダリティの差がある。

 どんなにあがいても、文明から出て
自然の中に回帰しなければ
感じることのできないクオリアがあるのだ。

 人工的
空間の中で魂が窒息しつつある人間たちが
臭い息を吐いている。
 現代のいわゆる「文化」はそういうの
ばかりなんじゃないか。

 2ちゃんねるで下らないことを書いている
やつらも、
 都会の夜を徘徊し、意味のない犯罪を
粋がってやっているやつらも、
 そのような題材に取材して小説を書いて
文化人気取りでいるやつらも、
 いちど、深山の杉の木立の中で一晩過ごして
みると良い。

 自分たちのやっていることが、つまりは、
人工区間の中で窒息した魂の吐く臭い息
だった、ということにきがつくんじゃないか。

 ちょうど、学校に反発して不良ぶっている
やつらが、所詮は「学校」という文脈の中で
コップの中の嵐を起こしているに過ぎないのと
同じように、
 現代の病も、文明という器を外しちまえば、
案外消えちまうんじゃないか。

 だから、椎名誠は人気があるんだろう。
 彼のエッセイや小説は、気楽に読めるし
気楽に読まれることが多いが、
 焚き火を囲んだり、モンゴルで馬に乗ったり、
パタゴニアで氷河が崩落するのを見たり、
 ああいうのは、実は、
文明の中で窒息しているくせに
本人たちはシリアスでクールだと思って
いる人たちによって
延々とつくりだされ、消費されている
弱々しい文化に対するすぐれた批評になっている。
 
 もちろん、皆が椎名誠になれるわけではない。
 モンゴルやパタゴニアに気楽に出かけられる
わけでもない。
 だから、せめて、病んだ小説を読んだり
映画を見たりしているだけじゃなくて、
 一種の対抗軸としての自然を思い浮かべなければ、
精神のバランスを取ることは難しいのではないか。

 すべてを洗い流していく朝の雨にそんなことを
思う。
 

デザイナーの

 投稿者:おれも行きたい!  投稿日:2004年 8月14日(土)02時06分1秒
   原研哉さんと銀座3丁目で飲んで
いたら、白洲信哉が乱入してきた。

 「お気をつけください! お気をつけください!」
とリングアナウンサーが思わず
叫ぶような展開であった。

 白洲が来たんで、せっかくそれまで原さんと
話していたことがぜーんぶ吹っ飛んでしまった。

 しかし、ちゃんと覚えていることもある。
 なんと、原さんは、講談社から1999年に出した
「心が脳を感じる時」の表紙のデザインをして
くださっていたのだ。
 
 なんと原さん、その頃からの関係とは!

 あのデザインは、本当に良くって、
「触って感じるデザイン」ということで、
私の周りでは大好評だったのだ。

 しかも、9月に新潮社から出る
「脳と仮想」の表紙に使われる紙も、
原研哉プロデゥースだというのだ。

 うーむ。原研哉、恐るべし。

 白洲信哉は、「『小林秀雄、美と出会う旅』
にこんな小さなよとよち歩きの
姿で、出ていたでしょ。」
と言うと、相変わらず照れて、
「まあ、それはそれ、これはこれ」
と言った。

 9月1日から、ウィスキーの旅で、
スコットランドに行くらしい。

 ああ、オレも仕事がなければ行きたいよ。 
 原研哉さんもあきれた、
信哉との夜ではあった。
 

八ヶ岳からは

 投稿者:子供と大人の間  投稿日:2004年 8月13日(金)09時29分34秒
   午後早い時間に帰ってきて、
仕事をしていた。

 夜、
 池上高志が前から「良い!」と言っていた
映画、Man on the moon(ジム・キャリー主演)
を見た。

 池上がどういうところを良い、と言っていた
かというと、
 「やっぱさあ、
テレビで受けたネタをみんなが期待している
時に、その期待を外して、「華麗なるギャッツビー」
を朗読するとか、ああいうのがいいんだよ!」
とかそんなことを言っていたのだ。

 件のシーンは、「タクシー」という
シチュエーション・コメディでブレイクした
アンディ・カウフマンが、どっかの大学
の講堂で意表をついて
ギャツビーの朗読を始めちまって、満員の観客が
一人、二人、と立って、最後はパラパラに
なっちゃう、というところだった。

 映画は、女の人とのプロレス・ネタから
南部のプロレス王とのマッチを仕掛けたり
(実は全部やらせ)、
 ドラマで殴り合いの喧嘩をしたりと、
常に観客の期待(予想)を裏切ることを
やり続けたアンディの生涯を描く。

 池上高志がなぜ、この作品を面白い、
と言うのかは判った気がしたけれど、
 私のコメディのストライクゾーンからは
外れている気がした。
 やっぱり、アメリカ人は良い意味でも悪い意味でも
childish(お子様みたい)だなあ。

 思うに、小津安二郎の映画のそこはかとない
ユーモアも、ブリティッシュコメディの傑作
(最近だとThe Office)の喜劇と悲劇が一体と
なった感じも、アンディ・カウフマン的な
プラクティカル・ジョークは散々やった後で、
その後ですっきりとした姿で残るものなんじゃ
ないか。
 ジム・キャリー演ずるアンディ・カウフマンは、
理屈が多すぎて、ゴタゴタしている気がする。
 
 プラクティカル・ジョークだったら、
オレも小学校の時に散々やったよ。
 クラスメートの背中に「バカ」という紙を
貼ったりとか、
 誰かをかついだりとか、
 でも、それはやっぱり子供の世界で、
大人にはもう少し違う世界があるんじゃないの。
 
 小津安二郎の「秋刀魚の味」で、笠智衆が
娘を嫁がせた後、正装のまま、一人寂しくバーに行く。
マダムが
「今日はどちらへ? お葬式ですか?」
と聞くと、
「うん、まあ、そんなもんだよ。」
と答える。

 マダムが
「じゃあ、かけましょうか、マーチ?」
と言って、軍艦マーチをかける。それを聞いて
いた一人客が、
 「大本営発表!」
と言うと、別の一人客が
 「帝国海軍は、今暁5時30分、南鳥島東方海上において」
と受ける。
 「負けました」
 「そうです、負けました」
と二人は言い合い、笠智衆に向かってにこりと笑い、
黙ってウィスキーを傾ける。

 ああいうシークエンスが、大人のコメディという
もんでしょ。
 
 他人を騙して喜ぶプラクティカル・ジョークを、
 剥き出しのまま大人の世界に持ち込んじゃうところが
アメリカ人のスゴイというか幼いところなのかも
しれないけどね。

 もっとも、幼いからこそ、
月なんか行っちゃうわけでしょ。
 イギリスのインテリの世界観の洗練は、
8月11日の日記で引用した
 ホラス・ウォルポールの言葉なんか見ても
そうだけど、古代ローマ以来綿々と、
という感じでクラシカルな意味である水準に
達してしまっているからねえ。
 だけど、そこまで洗練されちゃうと、
エンジニアリング
ばんばんやってロケット飛ばす、なんて方向に
なかなか人間いかないわけで。
 チャイルディッシュなコメディ見て喜んでいる
単純な人たちだからこそ、ロケットを月に飛ばせた
んでしょ。
 そのあたりは、良い面も悪い面も、
一体のナショナル・キャラクターになっている。

 アメリカで一番感動したのは、ワシントンの
スミソニアン博物館のアポロの展示である。
 
 結論として「マン・オン・ザ・ムーン」
が、本当のコメディの傑作と較べてかなり
見劣りする、ということは、まあ正直
仕方がない事実だと思う。

 ジム・キャリーの作品は、もういいや。
「トゥルーマン・ショウ」以来、見たものが
ぜ〜んぶチャイルディッシュだからね。
 チャイルディッシュだからこそ、アメリカ人の
コミック・ヒローなんでしょ。

 オレはもう少し大人のやつがいい。

 もっとも、池上高志もそのあたりは同意
するかもしれないので、今度ベルギー
ビールでも飲みながら、ゆっくり話して
みたいよ。
 池上高志に随分会っていないような
気がする。

(「秋刀魚の味」の上のシーンについては、
文學界 2004年1月号掲載、
「日常が底光りする理由」ー小津安二郎 私論ー
の中でも触れています。)

http://www.qualia-manifesto.com/ozubungaku.html

 

二日間の夏休みで、

 投稿者:夏の惨劇  投稿日:2004年 8月12日(木)08時47分24秒
  南八ヶ岳にきた。

 途中で、中央高速を長坂で降りた。
 オオムラサキセンターに行くためである。

 オオムラサキは日本の国蝶。
 最大のタテハチョウで、紫を基調にした
模様が美しい。

 日野春から長坂にかけての雑木林は、
日本有数のオオムラサキの産地である。
 子供の頃から何回か通った。
 中学校の時に、釜無川でキャンプをして、
焚き火を囲んで仲間たちと
朝まで喋って一睡もせず、
 そのまま日野春の雑木林を歩いた
こともある。

 オオムラサキセンターに行くのは初めて
だったが、
 ケージの中に飼育したオオムラサキが
放たれ、カブトムシと樹液を争っている。
 
 ひときわ大きな見事なオオムラサキが
空の王者の風格を漂わせてばたばたと
一本の木に飛んで行った時に事件は起きた。

 糸に引き寄せられるように幹に向かって、
そのまま見えなくなったので、
 樹液でも吸っているのかと回り込んだら、
思わずうぁーと叫びそうになった。

 幹に、オオカマキリが頭を下にして
留まっており、その腕の間にさっきのオオムラサキが
挟まれていたのだ。

 一瞬の惨劇はすでに終わっていて、
オオカマキリが、むしゃむしゃと落ち着いて
オオムラサキの胴体を食べていた。

 短パンをはいた「お父さん」が、二人の
女の子に、「おい、見てみろ」と指さし、
女の子が、「オオムラサキさん、かわいそう〜」
と言っていた。

 管理されているはずの空間の中の昆虫たちは、
しかし、
そんなことは知らない、と内なる自然に従っている。
 主役であるオウムラサキを、
脇役であるカマキリが食ってしまう
などという法はないはずだが、
 オオカマキリにそんな理屈が通じるはずが
ない。

 ケージから展示棟に帰る途中、
廊下を歩いていたら、大きな緑の点が
斜めにとんで、ぱっと止まった。

 あっ、と思ってよく見ると、
10センチはあろうという巨大なバッタが、
まるで魅せられたように軒下の蜘蛛の巣に
向かって真っ直ぐに飛んで、ひっかっている。

 観念したかのように、動かない。
しかし、バッタの身長の
五分の1もない、巣の主である
美しい蜘蛛は、悠然と構えていて
動く素振りを見せない。

 夏も盛りを迎え、生き物たちが死に急ぐ。

 この感じは、何かに似ているな、と考えていて
思い出したのが、歌舞伎の「夏祭浪花鏡」
だった。
 勘九郎がニューヨークでやったやつである。

 コンビニとビデオと2チャンネルに囲まれ、
 自然の何たるかを忘れた、現代の作家の
人工的で痩せ衰えた饒舌には付き合いきれないが
(なにが「好き好き大好き超愛してる」だよ、
ばからしい)、
 歌舞伎の名作には、自然の美しさと
残酷さがきちんと映し出されていると思う。

 高原に来たら、空気は清澄で、
何やら名前のわからないセミが鳴き、
カミキリムシが沢山とれた。
 

Men's Clubの取材で、

 投稿者:啓蒙アニメーション  投稿日:2004年 8月11日(水)09時00分10秒
   エディター、ライターの
志田英邦さんがいらっしゃる。
 とはいっても、柳川透がカンチガイして
いたように、私のファッションを取材に
きたわけじゃなくて(なワケないだろ!)
 「このヒトは
デジタル機器はどういうものを使って
おるのか!」
 というコーナーの取材である。

 QUALIA016(デジタルカメラ)と 
 QUALIA017(MDプレーヤー)を
持っていったわけであるが、
 それらの写真が美しく撮られるように、
とソニー広報の尾花さんの眼が光っていた。

 志田さんのフィールドはコンピュータ・ゲーム。
取材の終了後の雑談で、「どんな
ゲームが好きですか?」と聞いたら、
 「いや、ぼくは、ドラッグみたいなゲームが
本当はいいと思っているんですけど」と志田さん。
 これが、後への伏線となるのである。

 夜の帳が降りる頃、
 新宿のロフト・プラス・ワンで行われた
「コメディ・クラブ・キング」のイベントへ。

 桑原茂一さんが演出で、大堀こういち、池田鉄洋さんが
自衛隊員を演じ、Enlightenmentのヒロ杉山さんが
映像を。

 この映像がスゴくて、うーんとうなってしまった。

 後から乱入してきた芸大のP植田が、
「あっ、ヒロ杉山さんですか」などと言っていたから、
実はものすごく有名な人らしいのだが、
 かのモンティ・パイソンの「テリー・ギリアム」
に匹敵するすごい世界を、スネークマンショウの
音声とヒロ杉山のアニメーションは作り
出していた。

 とくに、「地球のジャングルツアーを
案内するインド人二人」と、
 「ヴィジュアル・ドラッグっぽい赤や青の
水玉うろうろ」あたりのシークエンスはスゴイ。

 後半のトークショウに、なぜか私も
引きずり出されることになってしまい、
 新潮社の「これ、なんですか? 
スネークマンショウ」を書いた吉村栄一さんの
となりで、かなり飛ばしてしまって
いたような気がするが、
 都合の悪いことは思い出さなければ
いいのだし、書かなければいいのである。

 しかしびっくりしたのは、ショウが
終わった後、縁もゆかりもない
20歳くらいの女の子三人が「サイン」を
もらいに来たことで、これには
アゼン! としてしまった。
 「あの〜先生かなにかやってらっしゃる方
ですか」
 「はあ。まあ、その〜」

 相手が誰かわからないけど、とりあえず
サインをもらっておけ、という姿勢には
深い感銘を受けた。
 サービスに、「四つ足くるくるしっぽ
フラワーピッグ」を描いた。

 打ち上げで、桑原茂一さんと
ちょっとゆっくり話した。
 桑原さんからは、「天才の孤独」というような
ものを感じる。
 私にとって「笑い」とは何か、と言えば、
 「世界は、感じる者にとっては悲劇であり、
考える者にとっては喜劇である」
というホラス・ウォルポールの有名な箴言に
行き着くのであるが、
 桑原さんは、その哀しいおかしさを、
音と映像の渦巻き空間の中で見事に表現
している。

 桑原茂一とEnlightenment。
これからどんな仮想マジックを展開するか、
タノシミだ!
 

都内某所で、

 投稿者:My QUALIA来る!  投稿日:2004年 8月10日(火)08時46分4秒
   昼食から五時間、うんうんと
ブレインストーミングをした。

 頭を使うのは好きだ。
 なんというか、カーンと空間が
張りつめたような快感がある。

 快感といっても、いろいろな質の
快感があるなあ、と思う。
 夏の暑い日にビールをうぐうぐ飲む
快感もあるし、
 野球をやっていてホームランを打つ
快感もある。
 そしてまた、歩き回りながら、ものを
考えていく快感もある。

 経験から言うと、あることについてきちんと
ものを考えるためには、少なくとも1時間くらいは
かかると思う。
 1時間くらい歩き回りながら、
徐々に対象を追いつめていく。
 時々、「あっ、そうか!」とひらめくことが
あるが、それはいわば句読点である。
 句読点を幾つか積み重ねて、
次第に構造ができていく。

 とらえどころのない対象を考えている
時の、抽象的空間をいろいろ注意の
サーチライトで照らし出している内観が
好きだ。
 だから、こんな仕事をしているのだろうか。

 ブレストを終え、新潮社の北本壮さんに
お会いして、「脳と仮想」のゲラを
お渡しする。
 「波」で書評を書いていただくのを、誰に
するか、という相談など。

 QUALIA東京

http://www.sonybuilding.jp/shopping/qualia/

に、注文していたQUALIA017が届いたというので、
受け取りに行く。
 月に15台しか生産できないこのプレーヤー、
QUALIA一周年パーティー(6月11日)の
時に注文してから、ちょうど2ヶ月の
「ご対面」であった。

 自筆のサインを彫っていただいたが、
どうも私の字が大きすぎたらしく、
工場の方々が苦労した、という話を
聞いた。



 QUALIA東京の築澤さんと、しばらくいろいろ
立ち話。
 最近は外人の来所が多くなっているらしく、
「アラブの富豪」や、「中国のお金持ち」など、
いろいろ面白いエピソードを伺う。

 私がQUALIA017を買った理由は、
もちろんその高級シガレットケースのような
どっしりとした質感が良い、ということも
あるけれども、公私にわたるMD録音の
資産がある、ということもある。
 
 Roger Penrose 養老孟司、松岡正剛・・・
とまさにきら星である。

 さっそく、今朝、養老孟司さんの
講演の録音を聞く。
 別売りもしている密閉型インナーイヤーレシーバー

http://www.sony.jp/products/Consumer/QUALIA/jp/information/017_receiver.html

は、注文が殺到して、随分待たなくてはいけない
状況になっていると聞くが、確かにフィット感も
音も素晴らしい。

iPodを持ってきて、iPodのイヤフォンと取り替えて
みて、「やっぱり違う」と言って注文して
行く人もいると聞く。

 2万1000円と、QUALIA商品では「破格に」
安い!

 街でiPodとQUALIAのインナーイヤーレシーバー
を組み合わせて聞いている人を見かけたら、
その人はきっとかなりスルドイ人だと思う。
 

人間は、

 投稿者:そうスカ〜!?  投稿日:2004年 8月 9日(月)06時47分21秒
   新しいメディアが登場した時、
足元をすくわれるのかな。

 週末、仕事をしながら、またも
「現代スカ」問題について考えて
いた私は、そんなことを思った。

 高橋源一郎さんのウェブ日記などを
読んでいると、ものすごく仕事をして
大変、というのが一つの芸になっていて
面白い。
 私はあまり具体的にどういう仕事を
しているとか書かないことをこの日記の
傾向にしているのだけど、
 たまには書いてみよう。

 PHPの石井高弘さんとつくっている
本は、創造性に関するもので、
その刊行時期はもう決まっていて、
しかし週末にしかまとめて仕事が
できないので、なかなか進まないのだった。
 その上、週末にも、
 他の仕事(今週末で言えば、建築学会の
予稿、「風の旅人」の原稿、新潮社から
9月に刊行予定の「脳と仮想」の後書き、
などなど)
が入ってきて、なかなか専従! というわけには
いかないのだった。

http://www.qualia-manifesto.com/noutokasou.html

 散歩とか、ランニングとかもしなくちゃ
いけないし。

 本当は、ゲラにするのはぎりぎりこの時まで、
と決まっているのかもしれないが、恐ろしくて
石井さんに聞けない。

 それはそうと、最初、創造性に関する
話を素直に書いていたのだけど、
 どうも面白くない。
 この、「読者にわかりやすく」というのが
一種の罠なんだな、と思った。
 エラン・ヴィタール(生命の躍動)がないのだ。

 それで、反省して、エラン・ヴィタールを
少しづつ入れることにした。
 予定調和ではなく入ってくる妙なもの、
 「こういう理由でこれはここにあるのね」
と説明できないで残る余白のようなものである。

 おそらく、現代のスカ状況を引き起こしている
のはテレビというメディアの性質なんじゃないかと
思える。

 昨日は「日曜美術館」から「N響アワー」
へとハシゴしながら原稿を書いていたが、
同じ時間に民放でやっている、タレントが
出てきてふざけあう番組を見ている
人がこの世に存在する、というのが信じられない
くらい、私は生理的にそういうのダメなんだ。

 だけど、そういう番組は、きっと、テレビという
メディア状況に、番組制作者、出演者、視聴者が
協働的に適応した結果なんだと思う。
 「視聴率」という指標を通して。
 つまり、テレビというメディアに足を
すくわれているわけだ。

 足をすくわれる中で、「タレントがなれあって
大笑いしながら手をたたく」などという
ニセの寒々しさはあっても、本物のエラン・
ヴィタールはなくなっていってしまった。

 そこから抜け出すためにはどうすれば
いいかと言えば、結局切断する(脱共役する)
しかないんだよね。

 テレビに続いて、インターネットという
メディアが登場したけれど、これについても、
私たちはかなりの部分足をすくわれているんじゃ
ないかと思う。
 2ちゃんねるなどはさておき、
ブログなどにしても、果たしてそこに
一級のコンテンツが登場しているのか?
 
 インターネットというメディアが登場した
おかげで、「こんなすごいコンテンツができた!」
というようなことが、果たしてあるのかどうか?

 私は、きっと、テレビよりももっとひどい
質の低下をインターネットは少なくとも、
一時的にはもたらすと思う。
 インターネット上のやりとりを見ていて、
「感動した」というよりも、「なれあいで
キモチわるい」と思うことの方が多くなった。
 フレームのようなことは少なくなったけれども。
 アマゾンの書評などを読んでいると、
バカの書いた本にバカな読者がなれ合っていて、
キモチ悪いことこの上ない。
 でも、それと同じことがインターネットの
至るところで起こっている。

 だから、きっと、インターネットも
どこかで切断することが必要になってくると思う。
 切断といっても、ゼロにするということではない。
 便利だから、なくすことはできない。
 自分の魂の場所を、インターネットという
メディアとは切り離されたところに持つという
ことである。

 今から100年くらい経ったら、テレビ
というメディアにも、インターネットという
メディアにも人類はなれて、
 足をすくわれることなくまたいいものを
作り始めているかもしれないが、
 現代はとにかくダメだ。
 適当に付き合いつつ、本当に魂の
在処を見せる勝負の時には、どちらも
切断して、
 孤独になってやるしかねえ。
 群れたがるやつらが多すぎて、
そいつらがテレビやインターネットで跋扈
してやがるのが現代の「スカ状況」なのだ。
 

本日発売の

 投稿者:Public Relations  投稿日:2004年 8月 9日(月)06時40分50秒
  「ヨミウリ・ウィークリー」
(2004年8月22・29合併号)に

連載 茂木健一郎 「脳の中の人生」
第16回
天才科学者の死が教えるもの

が掲載されています。

http://info.yomiuri.co.jp/mag/yw/

 フランシス・クリック死去の報に接し、クリックの残した精神と、日本での科学の報じられ方の問題点について議論しています。
 

日本建築学会の

 投稿者:Ode to Bad Losers  投稿日:2004年 8月 8日(日)08時23分56秒
   シンポジウムの
予稿を書かなくちゃいけなくて、
 A4、4枚かあ、ちょろい、ちょろい
と書き始めたら案外大変で、
うんうん書いていたら夕方になった。

 数えて見たら、原稿用紙で15枚
あった。

 それで、身体がなまってしまったので、
夕立が来そうな気配の中、さっと外に
飛び出す。

 近くの公園の森をランニングしながら、
そういえば、私は最近野草に興味を持って
いたんだ、と思い出した。

 名もない野草、その小さな
味わいを、鉢の中に寄せ植えして
味わってみたい。
 
 そう思ったら、走りながらキョロキョロ
し始めた。
 アジサイは抜くにはでかすぎる。
 あまり背の高い植物もイヤだ。
 小さくて、密やかにいるやつがいい。

 それで、目に留まったものがあった。
 
 道ばたにあった高さ5センチほどのマメ科の
植物をそろりと抜いて、
 掌に収めて、そのまま走り続けた。

 そろりと抜くとき、土が乾いてぼろぼろ
なのに驚いた。
 ここのところ、まともな雨が降っていない。
野外で生きるということは過酷なことだ。
 ぼろぼろの乾いた土の上でも、
こいつは身を堅くして生きのびてきた。

 ベランダのベンジャミンの鉢に植えた。
 今朝見ると、ベンジャミンの下で、
なんだか、訝しげである。
 
 小学校2年生の時、気分が悪くなって
保健室のベッドの真っ白なシーツの上に
横たわっている時の、嬉しいような
落ち着かないような気分を思い出した。

 夜、サッカーを見た。

 中国の人たちに対しては、こっちの祖先も
悪かったけれど、長い目で見ればお互い
様だろう、と言いたい。

 チベットで君たちは何をしているんだ?
 君たちの歴史は、侵略と抑圧の
歴史なんじゃないのか? 
 今の政治体制がまともだと思っているのか? 

 何であれ、自分に絶対に正義があると
信じて、他者への敵意を剥き出しにする
のは醜い。

 自分たちが世界の中心であるという、
 「中華思想」というもの自体が、醜いことに
気が付かないと中国は次のステージに行けない
んじゃないですか。

 しかし、去年北京に行って感じることも
いろいろあり、
あまり剥き出しの反中国の
センチメントを表明するのはやめておこうと
思います。

 まあ、経済発展が続けば、次第に視野が
開けていくでしょう。
 日本もそうだったからね。
 別に、経済発展が無条件にいい、なんて
言ってるんじゃないよ。

 あの時
 北京に行って感じたことは、「風の旅人」の連載、
都市という衝動 第5回の
「東方の島の迷い」というエッセイに書いた。

http://www.qualia-manifesto.com/cityurge5.html

 結局、共生していかなくっちゃしょうがないん
だからねえ。
 お互いの違いを認めた上で、楽しくやりましょうや。

 それにしても、やっぱりスポーツはいいね。

 子供の頃、一生懸命試合をして、それで
負けた時に、その負けた、という事実を
受け止める心理技術を身につけたことは
大きかったような気がするな。
 オレは、子供の頃、ものすごい負けず嫌いだった
けれど、
 負けたらもうしょうがない、ということは
草野球やサッカーやって学んだように思う。

 中国の人も、スポーツを大いにやると良い。

 私も、今日もまた走ることに致します。
 

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