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ハンガリーにまで

 投稿者:プライベート  投稿日:2004年 8月23日(月)17時56分51秒
   大量の仕事を持ち込んで来ていて、
学会以外の時間はずっと仕事をしている。
何をしに来ているのかわからない。

 ちょっとした空き時間に、田谷とブダの王宮の
下の草地を歩いていて、踊りに出くわした。
 屋台でトカイを売っていて、
それを一杯づつ買って、飲みながら見物した。

 赤と黒の衣装を着た女の子が、もっと小さな
男の子と踊っている。
 次第に周囲の見物人を巻き込んで、
一緒に踊り出した。

 こういう風景を見るとじんとする。
 世界は広い。その人たち以外には知られずに、
ひそかに抱かれている文化が沢山ある。

 どれくらいのアメリカ人が日本の
盆踊りを知っているか。
 プライベート(私秘的)なものは、それで
尽きている、存在価値がある、
と覚悟を決めるべきである。
 だいたい恋愛がそうじゃないか。
 秘め事と言う。
 自分と相手しか知らない。それで何の不足
があろう。

 地元の人のひそかな楽しみを目撃した
おかげで、
 トカイの味がますます好きになった。
 ハンガリー滞在中、トカイにはまりそうだ。
 

考えてみると、

 投稿者:トカイを飲みながら  投稿日:2004年 8月22日(日)14時10分58秒
   ヨーロッパの旧共産圏に
来るのは、これが初めてである。

 モスクワのブロックの中にあった
 歴史というものが10年やそこらで
振り払えるものかどうかはわからないし、
 そもそも、ブダペストを巡る
トルコを含む様々な国が絡んだ歴史
の絡み目を解くのは難しそうだ。

 空港からホテルまでタクシーに乗った時、
生まれて初めて経験したことがあった。
 運転手以外に、助手席に「コントローラー」
というのが乗り込んで来たのだ。
 その「コントローラー」が運賃が
いくらか計算し、その額を運転手が
きちんと受け取っているかどうかを
監視する役目らしい。

 公の腕章をつけたコントローラーの
おかげかどうかわからないが、
 運賃はまともな額のように思われた。

 もっとも、道中はずっと運転手と
仲良く喋っている。
 二倍の人件費をかけてでも、
運賃を監視した方が合理的、という
点に不思議さを感じる。

 パリで飛行機を待っている時、
ノートブックコンピュータで
一心不乱に仕事をしていると、
突然、「茂木健一郎さんですか」と
話かけられた。

 私の学生の田谷文彦の従兄弟で、
九州大学で心理学をやっている
田谷シンイチロウさんという人だ
というのだ。

 それはどうも、初めまして、
としばらく話したが、どうも妙な
ことになった。
 何しろ、私が「田谷が、そんな従兄弟が
いらっしゃるとは言っていなかったもので
びっくりしました」
と言うときの「タヤ」というのが、
次第に、田谷文彦のことなのか、
目の前の「タヤシンイチロウ」さんのことなのか、
どうにも曖昧に思われて来たのだ。

 ある言辞が、遠くのものを指すはずだった
ものが、目の前にあるものをも指している
ことに気が付いたための動揺する。
「神様というのはね」と安心して喋って
いたら、目の前のその人が神様だと気が付いた
驚きというか。
 こういう細かい心の動きの中に、
面白い認知問題のタネが眠っている。

 そう思って周りを見ると、
私と同じように
 ECVP(Eurpean Conference on Visual Perception)
に参加するらしい日本人が、
 ポスターを入れた筒を持って待合い室の
あちらこちらにいる。
 仕事に熱中していて、全く気が付かなかった。

 ブダペストで田谷文彦と合流して、
駅の近くのレストランでビールで乾杯し、
その後トカイを飲んだ。

 「いやあ、びっくりしたよ。空港で
君の親戚にあったよ。」
 「田谷の発表は24日だっけ?」
と今度は「タヤ」という言葉を安心して
目の前にいるその人を指す言辞として
使うことができた。 

 トカイは、私のまだ知らないハンガリーの
奥深い味がした。
 

「視点・論点」

 投稿者:緑の使者  投稿日:2004年 8月21日(土)04時33分3秒
  は当日に収録する。
 2800字くらい、と言われたので、
まじめに原稿を書いていこうかと思ったが、
 やっぱりアドリブでしゃべることにした。

 9分15秒。カメラの下に残り時間が
出る。
 まとめられたことはまとめられたけど、
スノウの話もクオリアの話もできなかった。

 一発でOKとなって、明治神宮の森を
歩いていたら、
 タマムシが落ちていた。
 まだ生きていたが、弱っていた。
コンビニで綿棒を買って
オロナミンCをしみ込ませて嘗めさせた。

 タマムシで、わっとよみがえった記憶がある。
 子供の頃、近くの神社の森に「タマムシの木」
があった。
 立ち枯れした木に、タマムシがたくさん
止まっていたのだ。

 見上げると、
 白い樹皮をみせて立つ木のはるか上の方に
あそこにも、ここにも、緑のキラキラした
やつがいて、時々ぶーんと飛び立ったり、
着地したりしていた。

 小学校2年生くらいだった私は、つなぎ竿
をのばして、一生懸命とろうとしていた。

 思えば、あれは、下から見上げた極楽の風景
だったのだろうか。

 あの頃のことを思うと、私たちの周りの
自然がもう取り返しのつかないほど破壊されて
しまっていることに改めて気づかされる。
 清流だった小川を、三面コンクリートで
固めやがって、下らねえ公園の造園をしやがって、
ふざけるんじゃねえと思う。
 自然はそのままにしておくのが
一番である。

 明治神宮のタマムシは、私に何を伝えに
きたのだろう。

 本日から、27日の夕刻まで、ブダペストに
行きます。
 この間、メールは読めると思いますが、いつも
より若干レスポンスが遅れるかもしれません。
 

本日

 投稿者:Public Lectures  投稿日:2004年 8月20日(金)08時36分42秒
  朝日カルチャーセンター講座

「脳とこころを考える   仮想すること」

第3回 

18:30〜20:30

新宿、住友ビル48階 朝日カルチャーセンター


http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0407/koza/A0201_html/A020101.html

 

あまりにも

 投稿者:ヘチマくんの壁  投稿日:2004年 8月20日(金)08時33分54秒
   昼間暑かったので、
暗くなってから久しぶりに
まとまった距離を走り、
ついでに花火をした。

 花火をしている場所から一人ふらふらと
離れていくと、
 暗闇に包まれて、
 昼と夜では空間の文法が違うことに
気が付く。

 夜の空間は、少し距離をとれば、
孤独になることができる。
 そこに人がいるということは
わかるけれども、
 表情や感情まではわからない。
 自分のまわりに、きゅーんと
暗闇が寄せ集められてきて、
 自分の秘密を守ってくれて
いるような気がする。

 たいていの文明の病は、
暗闇に包まれることで治るような
気がする。
 少なくとも私の場合はそうかもしれない。

 ヘチマが随分伸びてしまったので、
 先日、支柱を「増設」した。
そうしたら、また喜んでぐるぐると
つるの先を回転させて、
 さっそく新しい支柱をぐっとつかんで
伝いはじめたが、 
 思わぬ罠が待っていた。

 ベランダの壁にぶつかって、
そこで壁に向かってうん、うん、うんと
押しながら伸びようとするのだが、
当然のことながらうまく絡まないのだ。

 タッチ・センサーだけで彼らが生きていると
すると、支柱と壁の曲率の差をうまく差異化できない
のかもしれない。
 あるいは、まさか自分がタッチしているものが
巨大な壁だとは思わず、左右に揺れていれば
いつか「向こうに回り込める」と思っているの
かもしれない。
 
 二、三日観察していてもらちが明かないので、
壁から離して、改めて支柱の方につるを
導いてやった。

 「向こうに回り込める」と思っているが、
実は巨大な壁である。
 方向転換した方が良い。
 ヘチマくんに限らず、人生でもそんなことが
ありそうだ。

 私はヘチマくんに対して神を演じたが、
神から見れば、また、私も巨大な壁を伝って
うんうん言っているのかもしれない。

 問題は、曲率の微妙な変化を検出できるかだ。

 壁! 壁! 壁! 壁!
 私たちは、みな、きっと、神から
見えたら何であんなところでうろうろしている
んだろう、と思われるような壁に囲まれて
生きている。

 そんな
 人生の壁に比べたら、夜の公園で私を包んで
いた暗闇はあくまでも優しかった。
 われら皆、闇をこそ友とすべきである。
 

放送のお知らせ

 投稿者:Public Relations  投稿日:2004年 8月19日(木)22時28分7秒
  2004年8月20日(金)

午後 10:50 〜 午後 11:00
NHK教育テレビ
視 点・論 点
「解き明かされる人間」

脳科学者…茂木健一郎

http://www3.nhk.or.jp/hensei/ch3/20040820/text_18-24.html

 

お盆を

 投稿者:線何千本  投稿日:2004年 8月19日(木)07時37分2秒
   挟んで夏休みも終わり、
 21日からブダペストで行われる
ECVPの発表予行で、久しぶりに
研究室の面々が集まった。
 
 田谷文彦と、張さんのそれぞれの発表の
アウトラインをおさらいする。

 昔話も何だけれども、
オレが大学院に入った頃は、みんなまだ
シールのようなものをペタペタ貼って
発表マテリアルを作っていた。
 「スクリーントーン」とかいう、
さまざまな濃さで網がけできる
シールをつかって、
 Fig. 1 Fig.2 a b c...などと
作っていったものだ。

 私は当然のことながらイイ加減な性格なので、
a b cとかそういうアルファベットの位置が
微妙にずれたりして、
 「君、もうちょっとキレイに作りなよ〜」
と研究室の先輩に怒られたりした。
 なにしろ、作り直すにしても、
カッターか何かではがしてまた貼る、
ホワイトで消す、というものすごく
面倒な作業が待っていたのだ。

 今は何でもパワーポイントでちょちょいのちょいと
作ってしまう。
 ラクな時代になったものだ。

 この前、芸大、油絵科のP植田と喋った時に、
植田が、「昔の狩野派の絵師たちは、一日に
何千本と線を引く練習をしていて、その
風習が岡倉天心の東京美術学校の頃までは
残っていたらしいですよ」
と言っていた。

 パワーポイントで規格化されてしまった
感性に狩野派の線が引けるかどうか、
というとそれはまた別問題だ。

 言い古された言葉だけれど、
何かを得れば何かを失う。
 その失ったものを思い出している
うちはまだいいけれども、
そのうち忘れてしまう。

 谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を読んでいると、
我々が電灯の発達で失ったことの大きさが
思い起こされる。 

 かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を
賛美しておられたことがあったが、そう云えば
あの色などはやはり瞑想的ではないか。・・・
人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、
あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先
で融けるのを感じ、本当はそう旨くない羊羹でも、
味に異様な深みが添わるように思う。
(『陰翳礼賛』より)

 テクノロジーの発達はおそらく必然で戻す
ことはできないが、テクノロジーが出現する
前はどうだったのか、それを思い出すことは
できるのではないかと思う。

 狩野派の一日何千本の線

に相当する何かが、今の私にとっても必ず
あるはずだ、と思うこと。
 

ただ今発売中の

 投稿者:Public Relations  投稿日:2004年 8月18日(水)08時53分35秒
  『美術手帖』2004年9月号
(直島・地中美術館特集)に、

茂木健一郎 「地の中深く美に包み込まれて」

が掲載されています。


http://www.bijutsu.co.jp/bss/BSS_files/BT_top.html

 

小学校の時、

 投稿者:足をのばせ!  投稿日:2004年 8月18日(水)08時49分6秒
   勉強はあまり苦労しないでも
できたけど、
 体育は、それほど万能、というわけではなかった。
 だからこそ、体育の方に私の情熱のほとんどは
注ぎ込まれていた。

 小学校5年の時、市内水泳大会に出た
ことがある。
 種目は自由形で、担任の
小林忠盛先生にきたえられた。

 熱心な先生で、夏休み中、学校のプールに
通って、午前も午後も泳いだ。
 昼休みには、体育館でみんなで弁当を食べた。
 遊び盛りで、ふざけていて、
缶ジュースがプシューと泡を吹きながら
床の上をぐるぐる回ったことも何回か
あったように思う。

 しかし、練習が進むにつれて、みんな
疲れきって、休みの時は床の上に寝転がって
ひたすら休むようになった。

 疲労のピークは2週間目くらいに来た。
 小林先生に、
 疲れがたまってきているだろう、と言われた。

 誰でも、タイムがいったん、落ちるんだよ。
それで、この疲れを乗りこえると、また
上がっていくから、まあ見ててみな、
と言われた。

 私は、クロールのビートの足を
うまくしなやかに伸ばすことができなくて、
 小林先生に、足がもっとすらっと伸びると
タイムがぐんと伸びるぞ、と言われた。
 そんなものか、と一生懸命いろいろやってみたが、
どうもよく判らなかった。

 それが、疲労の山を乗りこえる頃、何かの
きっかけですーっと足が伸びた。
 自分でも、今までとはちがった形で
水をとらえている、ということがわかった。
 そうか、この感じか!
 身体が、「!」「!」「!」「!」と
脈動していた。

 水から上がると、
 ストップウォッチをもってタイムを
計っていた小林先生が、
 ほら、わかったろう。
と言った。

 あの時の、はしゃぎたくなるような
胸の底からわき上がってくる喜びは、
忘れられない。

 あの夏、私がやっていたことは、
オリンピックのアスリートたちに較べれば
児戯に等しいが、
 練習を重ねる中で、
 疲れがたまってまたすーっと身体が軽くなって
いく感じとか、
 身体の動きを、意識が完全にはコントロール
できず、ああでもない、こうでもないと模索
して、それがある時ぱっと掴むことが
できてすーっと抜け出す感じとか、
 スポーツが終わりのない自己探求の道だ、
ということはなんとなくわかる。

 別に金メダルをとる人だけの話じゃなくて、
競技スポーツをまじめにやっている人には
誰でも思い当たる話だろう。

 オリンピックという4年に一回の舞台の
 決勝にピークを持っていくのは大変なことに
違いない。
 アスリートたちの健闘を祈りたい。

 それにしても、あることに取り組んでいる
時に、疲労がピークに達して、それを
すっと乗りこえて新世界に入っていく、
というのは、スポーツ以外の様々な
分野でありそうである。
 

もう少し書かないと、

 投稿者:青空を見上げて  投稿日:2004年 8月17日(火)07時51分52秒
   おそらく伝わらないと
思うので書く。

 横浜の展覧会での「気付き」が非常に
大きな意味を持ったのは、「現代」という構造
自体の中に、作品を「スカ」にすることを
必然化する作用があるのではないか、という
ことを考え始めたからである。

 きのうの日記についていろいろな方から
メールをいただいた。
 堀江敏幸の小説は、あんなに
美しいのにそれほど多くの読者を得ない、
と書いてくださった方がいた。
 それはきっと、堀江さんの小説が
現代的ではないからだと思う。
 
 いかに「ウンザリ」だと思っても、
いきなり姉がベッドの上で浮いている、という
荒唐無稽な話を2ちゃんねるとかブログの
ような感じで饒舌に書く『新潮』今月号掲載の
舞城王太郎「みんな元気」の方が、
堀江敏幸の小説に較べれば、やっぱり
「現代的」だと思う。
 同じ意味で、伊坂幸太郎の小説も、
「現代的」だと思う。

 だから、舞城さんや伊坂さんの小説が
芥川賞や直木賞にノミネートされること
自体は、「現代的」事象として理解できる。

 この「現代的」というやつは、つまりは
すべての情報をスーパーフラットにビットとして
扱ってしまって、ビットとビットの組み合わせ
の問題に人生を回収してしまうんだよね。

 たとえば、『アヒルと鴨のコインロッカー』の
中では、2年前、ブータン人だった「ドルジ」
という男が、現在では「河崎」という男に
なりすましていた、ということが最後の
方で明らかになる。

 ほら、ビットとビットが操作されている
でしょ。
 「ドルジ」というビットを、「河崎」という
ビットと入れ替えれば、現代風小説が
できあがるわけです。

 「ドルジ」が2年間のうちに日本語をネイティヴかと
思うくらい完璧に喋れるようになっているのに、
なぜか読む方は
全くできない、という「おいおい、マジかよ」
というような不自然な設定も、ぜんぜんOKですよ、
先輩。
 なにしろ、単にAとBという
ビットを入れ替えただけだからね。
 それが、スーパーフラットな現代風だからね。

 「重力ピエロ」というメタファーについても
しかり。
 物語を構成するビットの中に、うまく当てはまる
んだよね。この「重力ピエロ」というメタファーが。
 それで、それを読んでにやり、と思ったり、
感動までしてしまう読者がいるわけ。
 哲学的な意味? えっ、そんなの、まあ
いいじゃないですか。
 ドストエフスキーの「大審問官」とは違うんです
から。
 意味ありげなほのめかしができさえすれば
いいんですよ。

 現代の流行作家と言われている人たちは、
ほとんど、この「ビットを入れ替える」世界
に生きているんだと思う。
 それが現代風の読者に受けるスタイルなんだと
思う。

 一方、オリンピックのアスリートたちは、
ビットを入れ替えれば
済む世界には生きていない。
 死ぬかと思うような苦しい練習をして、
自分の身体の、意識ではどうにもつかみ
きれない動きを練り上げ、さらにそこに
何かが付け加わらなければ、勝つことが
できない。

 オリンピックの報道のされ方は現代的
だけど、そこで起こっていることは、
ビット入れ替えスーパーフラットな
現代以前の根源的な何かだ。

 アスリートたちが
立ち向かっているその根源的な何か、の方が、
王城や伊坂たちの
スーパーフラットな現代風作品群よりも、
私が愛する、偉大な(もはや)古典的な
作品群に通じるものがあるなあ、
としみじみ感じるのだ。 

 先日、丸山健二さんの安曇野の庭にいった
時、三時間くらい、ベランダの上で昼寝を
して、青空を見上げていた時に
ふとよぎった思い。

 死ぬときになって、自分の人生を振り返った
時に、「毎日庭で手入れをして、青空の
下、さわやかな風に吹かれて、いい人生だったなあ」
と思うのと、
 「毎日チャットして、ブログを書いて読んで、
何時間もウェブサーフィンして、ああ、いい人生
だなあ」と思うのと、
どっちがいいか。

 ヘミングウェーの『老人と海』で、老人が
巨大なカジキと格闘した時間の流れを、
どうやってチャットやブログに回収するのか
(できるのか)?

 そんなことを合わせて考えて、私は
現代と格闘している。
 逃げる気はない。
 敵の正体は、徐々に見えてきた。
 

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