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近代を一度経由しない前近代はつまらない
ものだなと思った。
近代合理主義とは全く無関係な形で、
狐や妖怪のことを議論されても、ああそうですか、
としか思えない。
いわゆる博物学的な妖怪学がつまらないのは
そのせいだし、
あまりいい加減なことは言えないが、京都学派
が伸び悩んだ理由もそのあたりにあるのかもしれない。
小林秀雄が、『信じることと知ること』
で触れている「遠野物語」の
猟師のエピソードが、近代を
いったん経由した上での人間の主観的体験
の中に潜む魑魅魍魎のリアリティを考える上で
重要なヒントを提供している。
数十年山の中で猟をしていた男が、
白い鹿に会う。白鹿は神、という伝説が
あるので、もし傷つけて殺し損なえば
必ず祟りがあるだろう、しかし、名誉の
狩人であるから、世間の嘲りを恐れて、
思い切って之を撃った。
手応えはあるけど、鹿は少しも動かない。
ひどい胸騒ぎがして、魔よけとして
持ち歩いていた黄金の弾を取り出し、これに
ヨモギを巻き付けて打ち放したけれど、
それでも鹿は動かない。
あまりに怪しいので、近寄って見ると、
よく鹿の形に似た白い石であった。
数十年の間山中に暮らしていた者が、
石と鹿を見誤るはずもない。これはまさに
魔障の仕業なりけりと、この時ばかりは
猟を止めようと思った。・・・
この、正体を白い石と見届けた
後もなお残る、いやだからこそリアリティが
高まる「魔障」こそが近代の合理主義を経由
した後で大切になる何かを表している。
その「魔障」はどこにあるのか? 物理的実体
としてふわふわと外に浮いているわけではない。
「魔障」は人間の心の中にある。
これも小林が繰り返し言っていることだ。
夜になると風が涼しいので、
『伝・熊谷守一』の抹茶茶碗でビールを飲み、
古伊万里の猪口で酒を飲みながら、月を見た。
昨日は、昼間出て夜沈む月だった。
西の公園の森に沈むところが見えた。
ちょっと赤みがかったほっそりとした
姿をしていた。
朝になってパソコンを開き、さてどんなメールが
来ているだろうと待つのと、
今日の月はどのような様子をしているだろう、
と心待ちにすることは、
心の回路として随分違う。
もちろん、一度近代を経由して、
のことである。
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